天才と呼ばれた少女にとって、五輪(オリンピック)の舞台に立つことは決して夢物語ではなかった。だが、2000年の世界選手権で初めて金メダルを獲得して以降、12年後のロンドン五輪レスリング女子48キロ級で金メダルを獲得するまで、小原日登美さん(40)は壮絶な人生を歩むことになる。

「いい夫婦の日パートナー・オブ・ザ・イヤー2012」に選ばれ、お姫さまならぬお殿さま抱っこをする小原さんと夫の康司さん(2012年11月11日)

無理やり強行した「手術」で始まる悲劇

主戦場だった51キロ級で、2000年から出場した世界選手権は27戦無敗。6度も世界女王に輝いた。しかし、五輪とは12年間も無縁だった。理由は「階級」だった。

繰り返される変遷の中、2002年から7つの階級に分かれた女子レスリングだが、04年のアテネ五輪で採用が決まったのは4階級のみ。51キロ級は、残念ながら五輪で開かれない階級だった。本来であれば、体を絞って48キロ級で戦うのがより良い選択だったが、そこには妹の真喜子さんがいた。両親から「姉妹で戦う姿を見たくない」と言われた姉は階級を上げて、無敵を誇った吉田沙保里さんがいる55キロ級に挑むほかなかった。

だが、02年12月の全日本選手権決勝では、吉田さんにわずか25秒でフォール負けした。

アテネ五輪を目指して「しなくてもいい」と言われていた左膝を手術し、その回復が思わしくない中で今度は、右膝も負傷。練習がますますできなくなっていた。そんな状態だったとはいえ、完敗を受け入れることができなかった。人一倍強いレスリングに懸ける思いが、反動として表れてしまった。秒殺という圧倒的な力の差を見せつけられて「レスリングができないなら、生きていても意味がない」と心が折れた。年明けすぐ、実家に「レスリングをやめたい。帰りたい」と電話をいれた。

2002年12月の全日本選手権女子55キロ級で吉田沙保里(右)に敗れて2位に終わり、肩を落とす小原さん

そのとき両親は「レスリングをやめたら何もできないんだから、続けなさい」と諭し続けたという。当時はまだ、弱音としか思われていなかった。仕方なく、その後も練習には行っていた。練習場では自然と体も動いていた。だが、全く身が入らない。心の中は「やめたい」「帰りたい」ばかりだった。

「離れたい」気づけば「死」を考えた03年

03年4月、強化選手としてJISS(国立スポーツ科学センター)での身体測定に臨むため、姉妹同部屋で都内のホテルに泊まっていたときだった。周囲から見れば決してたるんでいないのに、衰えた体を測られたくないと思い悩んだ瞬間、部屋の鏡の前で手首にカミソリを当てていた。気づいた真喜子さんに怒鳴られ止められたが、心の逃避行は終わらなかった。危うさを感じて寝ずに見張ろうとした妹がウトウトした翌朝4時過ぎ、今度はホテルから逃げ出した。ハッと気づいた真喜子さんがホテルの外に飛び出たときは、既に遠くにいたという。大声で呼び止められ、追いかけられて、何とか無事に連れ戻されたのは、たまたまだった。

「あのときは本当に精神的におかしかったと思います。自分の気持ちが全てに対してマイナスでした。何か理由をつけて、とにかく『そこから離れたい』という気持ちだったと思います」

02年の全日本選手権準優勝で肩を落とす小原さん(右)に付き添う、48キロ級で優勝した妹の真喜子さん(2002年12月23日)

とうとう限界を迎えた7月1日。レスリングを辞めて青森・八戸の実家に戻った。それでも心がすぐに晴れることはなかった。

あるとき、目がうっ血していた。それは自分の手を首に当てていたからだった。後日、当時のことを「死ぬのかなと思ったら怖くなって手を離した」と振り返った。嫌々、連れて行かれた病院で「うつ病」と診断された。

周囲の献身、「太れる才能」と笑える今

心の病は簡単には治らない。それでも根気強く、絶えず付き添ってくれたのが両親だった。父清美さんは夜勤明けで帰ってからも隣で横になったり、散歩に付き添ってくれた。寝ずに仕事に向かうこともたびたびだった。同じく働いていた母万理子さんも黙々と、小原さんの苦しい胸の内を聞き続けてくれた。食べて寝るだけの生活で体重は80キロ近くまで増えたが、体だけでなく心も自然と豊かになっていった。

「本当にただ太っただけで、たくさん脂肪がついたので体はやばかったと思います。でも、そこから体重を落としたりして『人間て、自分の意識次第で自由自在だな』と思いました(笑い)。太ることもできるし、意識すれば体を絞ることもできる。自分は、太れる才能はあるんだと思いました(笑い)」

07年1月の全日本選手権決勝で対戦する吉田沙保里(左)と小原さん

八戸工大一高の先輩・後輩で、後に夫となる康司さんが心配して連絡をくれたのは、ちょうどその頃だった。自衛隊体育学校でレスリングをしていた康司さんからその様子を聞くと、興味が湧いてきた。偶然、母校が自衛隊に合宿に行くとあって、同行してみた。まだ72キロほどあった体を気にせず、久しぶりに汗を流すとあらためて「レスリングって楽しいなぁ」という気持ちになれたという。

「もう1度、やってみたら」という康司さんの言葉で「本気になろう」と決めたのは05年。「また一緒にやりたい」と大学を中退してきた真喜子さんと暮らしながら1年間、自衛隊へ練習に通い、翌06年4月から正式に入隊を認められた。最初の現役復帰だった。

本気になれた3年間。結局、08年の北京五輪も吉田さんにかなわず、55キロ級での出場は果たせなかった。完全燃焼とまでは行かなかったが、これからは妹のためにサポートに回ることを決心した。最後に、五輪後に東京で開かれた世界選手権(51キロ級)を制して有終の美を飾った後、仲間に胴上げされながら2度目の引退を迎えた。

世界選手権51キロ級優勝で引退に花を添えた小原さんは、自衛隊の仲間たちの胴上げに舞った(2008年10月11日)

妹の懇願、ようやく整った“過酷”な舞台

引退後はコーチとして、妹を指導する日々だった。だが、同じくアテネ、北京と五輪出場がかなわなかった真喜子さんも、実は心が切れていた。そして一緒に練習をしながら、まだ薄れていない姉の情熱も、妹は感じ取っていた。

デンマークで行われた09年の世界選手権。真喜子さんが48キロ級の2回戦で敗れた、その直後の会場での出来事だった。「日登美、48キロ級でやらない?」。突如、妹からの提案だった。「自分はこれ以上強くなれないから、日登美が代わりに五輪を目指した方がいい」。

小原さんは最初「無理だよ」と断ったが、妹の真剣なまなざしや、心にくすぶる思いと向き合った。2度目の復帰は48キロ級で決まった。ようやく整った舞台。だがそれは、過酷な減量との闘いの幕開けでもあった。

「ロンドン五輪に向けて48キロに階級を落としてからが1番、食生活にすごく気をつけた2年間でした。なるべく体にいいものを選んで食べようとしていました」

【アスレシピ編集部・今村健人】