栄光と挫折の連続だった。「無敗の世界女王」でありながら、五輪(オリンピック)の舞台に立つことすらかなわず2度、引退した。うつ病にかかり、自殺を考えたこともあった。階級を変えて復帰後は減量にも苦しんだ。そうした苦難を乗り越えて獲得した悲願の五輪金メダル―。2012年ロンドン五輪のレスリング女子48キロ級で金メダルを獲得した小原日登美さん(40)の壮絶なエピソードは枚挙にいとまがない。今あらためて語る、「食事」にまつわる話を中心とした現役時代の物語。3回に渡ってお届けする。

今も自衛隊員として活動する小原日登美さん

食パンにジャム、ただしマーガリン抜き

12年8月8日のロンドンの朝は、いつも通りの「試合当日の食事」で迎えられた。白米に加えて「1番大好き」なパン屋の食パンが目の前に並ぶ。応援に駆けつけた夫康司さんが、わざわざ日本から持ってきてくれたものだった。

「自衛隊に入って初めての試合の日、コーチから『食パンにジャムを塗って食べろ。ただし、マーガリンは塗るな』と言われて食べた中で勝って、世界に行くことができました。それ以来、験担ぎで試合当日の朝は必ずジャムを塗った食パンを食べていました。自分の勝負メシだったんです」

人生の大一番を前にしても、これまでと変わらないルーティンをこなせた。それも、白飯より糖質が高いため大会前の1カ月間、ずっと我慢してきた大好きなパンで。これほど力強いことはなかった。その陰には実は夫の奮闘もあった。

パンを受け取ったのは前日計量に臨む数時間前だった。ほとんど何も食べられず我慢を強いられる時間帯だっただけに、小原さんが夫に向けて発した言葉は「ありがとう」ではなくて「ジャムは?」。

「『不機嫌そうに言われた』と後から夫に言われたんですが、そこの記憶は全然ないんです(笑い)」

慌ててロンドン市内にジャムを買いに行った康司さんは、周囲から「かわいそうに」と慰められたという。

ロンドン五輪レスリング女子48㌔級でマリア・スタドニク(左)を破り優勝し、喜ぶ小原さん

五輪金メダルを支えた夫のひそかな献身

そんな舞台裏があったことを周囲は知らない。そして待ちに待った五輪のマットで勝ち進んだ。試合の合間には補食によるエネルギー補給も欠かさなかった。ゼリー系飲料に加えて、おにぎりやバナナ、カステラ。チョコレートもよく食べていたという。

「水分はもちろん常に摂り続けました。なるべく胃が重くならないよう。でも、おなかが減っていると力が出ないので、試合ごとに補給、補充。こまめに摂るように心がけました」

迎えた決勝の相手は、前年の世界選手権決勝でも戦った強敵。そのときと同様に第1ピリオド(P)を落としたが、日本を出発前に康司さんから渡された手紙の内容を思い出した。

「五輪に魔物はいない」

1度、悪く思い込んでしまうと引き返せない自身の性格を、その言葉が引き留めてくれた。背中を押され、切り替えて攻めに出た第2、3Pを瞬く間に連取した。両目のコンタクトレンズを試合中に失い、残り時間も分からない中で「守るな。攻めろ」と言い聞かせた自分の耳に、金メダルを告げる試合終了のブザーは静かに鳴り響いた。

「支えてもらったみんなと一緒に金メダルを取れました」

ロンドン五輪のレスリング会場で観戦する小原さんの家族。中央は妹の真喜子さん(2012年8月8日)

カルビ知らずの幼少期、とにかく「食べろ」

レスリングが盛んな青森県八戸市に生まれ、小学校3年から競技を始めた。陸上の選手だった父清美さんからはとにかく「食べろ」と言われたという。おかげで「胃は強くなりました」。

地元で有名なイカの料理も朝から食卓に並んだ。魚やすし、刺し身を当たり前のように食べる生活。さらに父は独特で、卵の殻を少し破いて白身を取り出し、黄身だけにしょうゆを垂らして食べていた。そんな食べ方も「おいしいな」と思ってまねしていた。

「うちは小さいころ、焼き肉というと『ラム』ばかりで、小学校の中学年になるまで焼き肉はラムしかないと思っていました。いつか初めてカルビを食べたときは『こんなおいしい焼き肉はなんだ!?』と思った記憶があります。今思うと、ラム肉が体を強くするのに良かったんですかね」

羊肉の中でも生後1年以内の「ラム」は高タンパクで低カロリー。脂肪燃焼効果を持ち、筋肉をつけながら体脂肪を落としたい時にオススメとされる。とはいえ、幼少期に食べる人はあまりいない。両親に深い考えがあったのかは、さすがに聞いていない。

天才と呼ばれた少女はやがて、世界で無敵の女王になった。51キロの階級で2000年から出場した世界選手権は27戦無敗。6度も世界女王に輝いた。しかし、そんな世界女王も五輪の舞台とはずっと無縁だった。そこには小原さんを語る上でどうしても外せない、壮絶な道のりが待ち受けていた。

【アスレシピ編集部・今村健人】