祖父から父へ、父から孫へ-。東北ゆかりのアスリート魂を受け継ぐ、注目のプロ野球選手が誕生する。阪神から1位指名を受けたアマNO.1スラッガー、近大・佐藤輝明内野手(21=仁川学院)だ。

指名あいさつを終え、阪神矢野監督(右)と「矢野ガッツ」を披露する近大・佐藤輝(撮影・加藤哉)

柔道で91年の講道館杯を制した父博信さん(53=関学大人間福祉学部准教授)は仙台育英(宮城)OBで、宮城県村田町出身。生家では祖父勲さん、祖母美智恵さん(ともに81)がドラフト指名に涙した。高校まで毎年、お盆と年末年始の帰省を欠かさなかった孫の成長を見守った2人が、佐藤家に流れる野球のルーツ、大物ルーキーの素顔を語った。【取材・構成=佐藤究】

祖父は野球チーム初代監督、父は野球から柔道の道へ

祖父母はかわいい孫を「テル」と呼ぶ。26日、2人は緊張しながら、運命の1日をテレビ越しで見守った。4球団競合の末、阪神が交渉権を獲得。指名の瞬間は感極まり、うれし涙がこみ上げた。勲さんは「何かの縁を感じた」。佐藤は小学生時代にタイガースジュニアに選出された。当時支給された虎マーク入りのジャンパーは「小さくなったから」と、164センチの勲さんが譲り受けた。普段着で愛用するといい、「これが、引き寄せたかな」と笑い、待望のプロ野球選手誕生に目を細めた。

阪神ドラフト1位佐藤の父博信さんが小学校時代に愛用したグラブを手にする勲さん(撮影・中島正好)

勲さんは大の野球ファンで、野球好きが高じて近所に少年野球チームをつくった。1974年(昭49)に沼辺少年野球クラブを結成して初代監督に。チームは今も活動を続けている。博信さんも同チームで野球を始めた。勲さんは監督から退いていたが、自宅庭にマウンドをつくり、次男の投球練習を受けた。

当時から長身エースだった博信さんは地区優勝し、宮城球場(現楽天生命パーク宮城)で行われた県大会に出場。だが、味方の失策が絡んで敗れ去った。その夜、2人で入った風呂場で「俺、野球はダメだわ。1人では勝てない。柔道に専念する」と打ち明け、野球を辞めた。勲さんは「相当ショックだったんでしょう。おやじとしては、続けてほしかった」と今も残念がる。同学年は、PL学園が桑田、清原の3年夏に甲子園優勝した「KK世代」。宮城では、東北がエース佐々木主浩氏(元マリナーズ、日刊スポーツ評論家)を擁して春夏8強入りした。

博信さんは柔道家としても一流だった。仙台育英では3年時に全国総体出場、東北王者にも2度輝くなど「黄金期」を築いた。身長184センチと体格にも恵まれ、日体大では86キロ級で、同期のバルセロナ五輪金メダリスト古賀稔彦氏(52)とともに1年時から活躍。2年時にチェコ国際優勝、4年時には正力杯2位。副主将も務め、主将の古賀氏と名門を引っ張った。勲さんは「柔道は自ら選んだ道。努力したんだろう」と、親孝行を喜んだ。

帰省時は祖父と猛特訓

勲さんも中学まで野球少年だった。仙台商(宮城)では「年を取っても、できるスポーツって何だろう」と、軟式テニスを始めた。最高成績は県3位。「生涯スポーツにするためには、コートもあった方がいい」と所有する敷地の一部を整地。アスファルト敷きのテニスコートを設営した。毎年、お盆と年末年始に家族で帰郷する博信さんとラリーを楽しみ、佐藤にとっては野球の特訓場所だった。

祖父勲さんが阪神ドラフト1位佐藤とキャッチボールした自宅敷地内にあるテニスコート(撮影・中島正好)

当時は投手。勲さんがミットを手に、テニスコートで「女房役」を務めた。ゴムチューブを使った筋力トレーニング、隣の大河原町にあるバッティングセンターに連れて行って打撃指導で汗を流した。美智恵さんが「おやつの時間だよ」と呼びかけても、耳を傾けないほど熱中。野球を始めてから、毎年帰省時の恒例行事となった。熱血コーチに徹した勲さんは「帰省した時にしか、特訓はできない。『休め休め』なんて言わなかった。テルは耐えてましたよ」。

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