北海道でも、東京五輪・パラリンピックを支えたいという動きがでています。農業試験場(農試)や生産者の努力で全国ブランドに成長した道産米など、北海道の食材を東京五輪でPRしよういう動きを紹介します。

手作業で田植えをする上川農業試験場のスタッフ(撮影・浅水友輝)
手作業で田植えをする上川農業試験場のスタッフ(撮影・浅水友輝)

国内トップレベルの北海道ブランド

北海道らしく、20年東京五輪・パラリンピックを支えたい。200カ国、1万人を超えるアスリートが集うスポーツの祭典。舞台裏で努力しているのは選手だけではない。1886年(明19)創立の上川農試では、長年の努力で生み出した道産米での貢献を思い描いている。

研究部水稲グループ研究主幹の宗形信也氏(52)は、東京大会への道産米供給について「ニーズとしての話はある」という。「トータルとして売れる北海道ブランドを目指している」という農試が担うのは、品種改良と栽培技術の開発。食材のPRは道やJA北海道、ホクレンなどが担うが、農試側も「30年かけて食味を上げて、日本の中でトップレベルになった」と自負する道産米への期待感は大きい。

道産米などの品種改良に取り組む上川農業試験場の宗形信也さん(撮影・浅水友輝)
道産米などの品種改良に取り組む上川農業試験場の宗形信也さん(撮影・浅水友輝)

「獲れる米→おいしい米」へ品種改良

道産米の歴史は北海道開拓から始まった。寒さ、短い日照時間の中で偶発的に育った品種は、翌年は収穫できなくなるという繰り返し。戦後の食糧難の時代、品種改良は「なるべくとれるものを」が前提だった。食管法(※1)で政府による全量買い付けもあり「味は二の次でおいしくなかった」(宗形氏)。68年には収穫量、翌年には作付面積で最高値を記録したが、64年東京五輪景気から続く70年代高度経済成長は食文化を変えた。

「おいしい米」が求められた。食味の劣る道産米は消費者から真っ先に切られ「ヤッカイドウ米」とまでやゆされた。道内でも新潟産などのブランド米が人気だった。80年開始の「優良米早期開発プロジェクト」が転機となり「とれるものから売れるものへ」と転換した。多いときで1年に120種の品種改良を試行。予算は限られ、少人数で手植えから脱穀まで全て手作業だった。炊飯器で米を炊き、成分を分析する日々を重ね、8年後に誕生した「きらら397」から道産米の反撃が始まった。

ビニールハウスで生育を促している稲(撮影・浅水友輝)
ビニールハウスで生育を促している稲(撮影・浅水友輝)

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