<コロナに翻弄された人たち:2020年を振り返る>

コロナ治療の最前線に立つ横浜市立大付属病院救急科の小川史洋医師は、野球を支えにウイルスに立ち向かってきた。

その日は突然やってきた。2月9日。大の阪神ファンの小川医師は、休憩時間にSNSで阪神のキャンプ情報をチェックしていた。「今年は原口、北條に頑張ってもらわんとな」。期待を膨らませていたころ、ダイヤモンド・プリンセス号から患者が運ばれてきた。同病院は重症患者の受け入れを表明。すぐさま対応に迫られた。

「先生、ありがとう。ここに来られてよかった」。運ばれてきたとき、そう元気に話していた患者さんが、12時間以内に息を引き取った。未知の敵との、厳しい闘いの始まりだった。

「恐怖しかなかったです。武漢でも多くの死者を出している。どんな病気なのか、どうしたら感染するのか。わかりませんでしたから」。まずは医療体制を整えた。すぐに5人の医師でチーム「コビットバスターズ」を結成。シフト制で対応にあたった。感染予防を徹底し、治療にあたりながら毎日文献を検索。治療方法を模索した。4月までは休みなくフル回転だった。

思い出すと今でも胸がしめ付けられる。「精神的にキツかったのは、亡くなった方のご家族の思い。面会もできなければ死に目にも会えない。どれだけ家族にとって苦痛だったでしょう」。家族がわりに、最後までみとることができただろうか。最後の状態を伝えることができただろうか…自問自答で、精神的にも体力的にも疲弊した。

院内、自分の家族への感染をどう防いだらいいのか。問題は山積みだった。そんな中、小川医師の支えは家族と野球だった。当直あけでどんなに疲れていても、現在野球チームでプレーする小4の長男とキャッチボールをし、バッティングの指導をした。「これが僕にとってはいい息抜きでしたね」。野球で気持ちを切り替え、再び厳しい現場へと戻った。

横浜市立大付属病院救急科の小川医師(2020年6月24日)
横浜市立大付属病院救急科の小川医師(2020年6月24日)

小川医師は桐蔭(和歌山)で甲子園を目指した元高校球児だ。日南学園の小川茂仁元監督を叔父に持ち、家族も皆、野球好き。小さいころの夢はプロ野球選手だった。しかし、中学で右足脛骨(けいこつ)の末端を粉砕骨折。その際、治療にあたった医師の熱心な姿に、医療の道を目指すようになった。

投手兼野手として厳しい練習に耐え、3年夏はベスト8。「完全燃焼でした」と胸を張る。「負けるものか、という根性と精神力、集中力は野球から培ったものですね」。医師になっても曲がったことは嫌い。投手ならではの真っ向勝負がスタイルで、いつも真っすぐ患者と向き合う。

6月19日。プロ野球が開幕し、小川医師は阪神の勝敗を楽しみに毎日を過ごしている。「やっと球春が訪れましたね。野球が始まらないと春が来た気がしませんから」と目を輝かせた。以前勤務していた病院では、阪神ファンの患者に、手術前の不安を取り除くため「六甲おろし」を聞かせて手術室へ向かったこともある。これからも野球を支えに患者の心に寄り添いながら治療にあたる。【保坂淑子】

(2020年7月24日、ニッカンスポーツ・コム「野球の国から」)