各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は、ヤクルト・ドラフト1位木沢尚文投手(23=慶大)です。最速155キロの直球を武器に、強気の投球で打者を攻めるパワーピッチャー。期待のルーキーに聞きました。

沖縄・浦添春季キャンプで投球練習するヤクルト木沢
沖縄・浦添春季キャンプで投球練習するヤクルト木沢

元々はサッカーが好きだった。野球を始めたきっかけは、シンプルだった。

木沢 小学校でドッジボールをしてて。同級生に「投げるの好きなら一緒に野球やってみない?」と声をかけてもらったのがきっかけでした。せっかく誘ってもらったなら見に行こうかなと軽い気持ちでした。

小学2年生の5月に地元の学童チームに体験に行き、即入団を決意。ドラフト1位への道のりが始まった。中学生になると、強豪の八千代中央シニアに所属し、全国大会で優勝も経験した。中学3年時で早くも178センチ。大きな体を生かし、力強いボールを投げ込んだ。

木沢 中学生ぐらいまでは文武両道でいたいというのはあった。強豪校に進みたい、甲子園に行きたいという思いよりは、ませていたというか。早慶戦に憧れがあったので、早慶戦に近い、出られる可能性が高い学校に行きたいというところで、まずは付属校から探していこうとなって。早稲田実業か慶応高校の2択でした。慶応の見学に行った時、今まで見てきた野球部とは違った大人の雰囲気、選手同士で自発的に意見が飛び交っているような雰囲気に憧れて、慶応で野球をやりたいと思いました。

慶大4年の早大戦で救援登板
慶大4年の早大戦で救援登板

成長が早かった中学時代。高校、大学では周りの体も自分と変わらなくなってきた。体格を武器にするだけではダメだと痛感した。どうやったら成長できるか。考え抜いた。

木沢 ちゃんと体が成長した段階からウエートトレーニングも真剣に取り組むようになった。フォームづくりもどうやって効率よく力を伝えられるか、繰り返しやってきた。瞬発系のトレーニングもたくさんしてきましたし、何か1つというところではなく、全部球が速くなるように。すべての力が、筋力的なことも柔軟性も含めてレベルアップして、フォームが良くなれば必然と球が速くなるだろうなと思ってやっていました。

数多くの投手の映像を見て、投球動作を分析した。どうすれば速くなるか。練習法も自ら考え、実践してきた。それを支えたのは、入学の決め手となった慶応のチームカラー。自主性だった。

木沢 高校、大学ともに自分が拾ってきた、自分で見つけてきたものを試しやすい環境にあったといいますか、そういうのが許されやすい雰囲気だった。頭ごなしに「この練習をやりなさい」というのが一切なかった。そういう環境作りをしていただけたのが、大きかったのかなと、今振り返ると思います。

自己分析を重ね、昨年ヤクルトからドラフト1位指名を受けた。プロになっても、考えることを欠かさない。開幕1軍入りへ、結果でアピールをしなくてはいけない。

木沢 今、意識しているところは、正直結果がほしいというところだけです。開幕1軍で迎えたいので。ただ、試合で結果を出したいというところと、それに向けて成長していくというところですね。今までのレベルだと通用しないと思う。地道にうまくなれればなと。

ヤクルト入団会見で高津監督からユニホームを着せてもらう
ヤクルト入団会見で高津監督からユニホームを着せてもらう

結果を求めながらも、アピールの場を成長の糧にもする。

木沢 シンプルに考えて、自分は細かいコントロールがない。どんどんバッターがバットを振ってくれる状態にすることが必要なので、ストライク先行にすることの重要性を試合の中で感じています。

試行錯誤の毎日。1年間1軍で投げ続け、経験を積むことを目指す。

木沢 1年間終えた段階で何がダメかなと考えた時に、自分自身の何が通用して、何が通用しなくて、何をすればいいのか分からない状況で1年間終えることだけはやめたい。まずは1軍のマウンドで投げ続けることで、自分自身の引き出しを増やしていきたいと思いますし、1軍の舞台でどんどん成長していくことが大事なのかなという風に思っています。

持ち前の分析力でプロの世界まで上りつめた。プロ生活も、自ら考え、実行して、ヤクルトに欠かせない投手になる。【湯本勝大】

◆木沢尚文(きざわ・なおふみ)1998年(平10)4月25日生まれ、千葉県船橋市出身。二宮中時代は八千代中央シニアで坂倉(現広島)とバッテリーを組み、3年春の全国大会で優勝。慶応では右肘のケガの影響もあり甲子園出場なし。慶大では2年春にデビューし、リーグ戦通算16試合5勝1敗、防御率2・86。20年ドラフト1位でヤクルト入団。183センチ、85キロ。右投げ右打ち。

(2021年3月14日、ニッカンスポーツ・コム掲載)