各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は、ヤクルトの守護神を務める石山泰稚投手(32)です。小学校のクラブ活動で4年生から始めた野球。投手でも、レギュラーでもなかった中学時代。そして秋田・金足農高での転機と、決して野球エリートではなかった歩みを追います。キャッチボールを、練習を、野球を、全力で楽しもう!

12年、ドラフト1位でヤクルト入団
12年、ドラフト1位でヤクルト入団

野球人生の出発点は「楽しい」だった。秋田・旭北小低学年から少林寺拳法を続けていた石山は、クラブ活動で何部に入ろうかと考えた。バスケットボール部か、サッカー部か…。でも相談した父親からは「野球だったらいいよ」の答えが返ってきた。「クラブ活動をしないと友達も増えないですし、暇だから野球やろうかなと思いました」。小4でのこの決断が人生を左右することになるとは、全く思っていなかった。

初めてのキャッチボール、ノック。毎日の練習は、とにかく楽しかった。試合にも出場したが、思い出せるのは負けた記憶ばかり。「めちゃくちゃ弱かったです」と笑う。当時のポジションは、二塁手や遊撃手。試合に負けても、悔しさよりプレーできるうれしさの方が勝っていた。「友達と一緒にやるのが楽しくて、好きでしたね。友達と遊んでいるみたいな感覚でした。練習も、きつくはなかった。楽しかったです」。この気持ちが、野球を続けるきっかけになった。

運命は、野球と出会った時からつながっていたのかもしれない。小学校で、初めてもらった背番号が「22」だった。「大魔神」佐々木主浩、ヤクルト高津(現監督)らが背負った守護神の系譜ともいえる背番号。テレビの野球中継に映る大魔神の背中は、大きく輝いて見えた。「たまたまテレビで見て、同じ背番号というだけですごいなぁとずっと思っていました」と振り返る。

05年9月、秋季高校野球秋田県大会で完投勝利した金足農時代
05年9月、秋季高校野球秋田県大会で完投勝利した金足農時代

小学校時代のチームメートが続ける流れで、山王中でも野球部に入った。強肩を買われて三塁手だったが、レギュラーではなかった。ブルペンに行くことはあったがマウンドではなく、なんとブルペン捕手。チームは弱く、県大会も1回戦、2回戦での敗退が多かった。「僕の中では、そこまで自分がうまいと思っていなかったんです。1学年下の選手が上手だったし、だからそこまで悔しいという気持ちもなかった。将来プロ野球選手になる目標なんて、全然です。どこの高校に入れるかな、くらいでした」と苦笑いだ。

中学でもたまに投手を務めることはあったが、コーチの勧めもあって進学した金足農で本格的に転向した。そこで、打撃投手という役割に巡り合った。先輩打者との真剣勝負。直球だけでなく、変化球も交ぜてぶつかった。「先輩と対戦して、本気で投げて、本気で打たれていました。それが楽しかった。抑えたら、先輩に『よっしゃー!』みたいな感じになったし、打たれたら逆に先輩に言われたりしていました」。打者を抑える投手の喜びに、目覚めた。

20年7月、広島戦に登板した石山
20年7月、広島戦に登板した石山

東北福祉大、ヤマハを経てプロの道へ進んだ。高校以降は厳しい練習もあり、やめようと思ったこともあった。それでも続けてきたから、今がある。プロ野球選手の立場から、子どもたちに伝えたいことは「楽しいと思ってやるのが一番」という考えだ。「なるべく野球を嫌いにならないように、そういう工夫をして、保護者の方や指導者の方にやらせてもらえたら、いいんじゃないかなと思います。僕は、子どもの頃、ずっと楽しかった記憶しかないので」。毎年、オフには同じ秋田出身の先輩投手・石川と地元で野球教室などで子どもたちと交流する。それも「楽しいことを伝えたい」という。

野球を始めるずっと前、幼稚園生の頃に書いた将来の夢は「プロ野球選手になる」だった。任されている守護神は、重大な責任とプレッシャーのかかるマウンドに立つのが役目。仕事を果たせば、待っているのは歓喜の瞬間だ。「勝つのが一番だと思っている。僕が打たれても、チームが1点でも多く取っていて最後に勝てるように、勝つ試合を見せたいといつも思っています」。チームのために、腕を振る姿を通じて、野球の楽しさを伝える。【保坂恭子】

◆石山泰稚(いしやま・たいち)1988年(昭63)9月1日、秋田県生まれ。小4時に旭北小スポーツクラブで野球を始める。金足農では2年春からベンチ入りし、同秋からエース。3年夏には県8強。東北福祉大-ヤマハを経て、12年ドラフト1位でヤクルト入団。1年目から60試合に投げ、10セーブ21ホールド。18年には自己最多の35セーブをマークした。推定年俸1億5000万円。182センチ、75キロ。右投げ右打ち。

(2020年8月22日、ニッカンスポーツ・コム掲載)