悔しさをバネに-。近未来の競輪界を背負う存在として期待される黒沢征治(28=埼玉)は、かつて最速152キロの速球を投げ、プロ野球のスカウトも注目した投手だった。新型コロナで高校スポーツなどが中止になる中、1度夢が破れた経験があるからこそ見えてきた世界、心境を聞いた。【取材・構成=栗田文人】

黒沢征治の少年野球時代
黒沢征治の少年野球時代

夢はプロのマウンドに立つことでした。

小1で野球を始め、中3でチームのエースになり、常磐大高3年の時には茨城県予選でベスト16。甲子園には行けなかったけれど、いい思い出です。

高2の時に肩を痛めて投げられない時期があり、とにかく走り込んだんです。その効果で急激に球速がアップし、常磐大3年の時に152キロを出すと、プロのスカウトからも声を掛けてもらえるようになりました。社会人でもっと力をつけてからドラフト指名を待とうと思い、あえてプロ志願は出さず、縁があったHondaに入社。さあ、これからと思ったのですが…。

自分はスピードが売りだった一方で、コントロールが悪かった。チームは都市対抗などで優勝争いをしていましたが、自分はベンチを温めるばかり。ケガでもないのに出番がなく、悔しくきついだけの2年間でした。結局、プロは夢に終わりました。

黒沢征治の高校時代
黒沢征治の高校時代

「このままでは終われない。もやもやを晴らしたい。見返したい」。そう思っていたころに出会ったのが競輪でした。野球から競輪に転身して活躍している選手のことを、知人に教えてもらったことがきっかけ。それまで自転車には全く縁がなかったけれど、埼玉・大宮競輪場にレースを見に行って「これしかない」と思いました。それからは父の大反対を強引に押し切って、約1年間、会社で3交代制のライン作業をこなしながら、ウエートトレーニングに励みました。野球での挫折があったから、頑張れたと思っています。

競輪学校(現養成所)の入試には、元々自転車競技をやっていた人が受ける「技能」と、他競技をやってきた人の「適性」があります。僕はもちろん「適性」組。師匠の細沼健治さんを始め、先輩たちの指導のおかげもあって無事合格することができました。

当然ですが、入学当初は同期の自転車エリートたちには全くついていけません。でも、毎日欠かさず個人的に朝練をして、訓練では先頭で風を切る「先行」を常に心掛けていたら徐々に脚力もタイムも上がっていきました。卒業時に在校順位で(68人中)11位になれたのは自分でも驚きです。

最速152キロの黒沢征治が競輪選手としてトップを目指す
最速152キロの黒沢征治が競輪選手としてトップを目指す

今から思えば野球で鍛えられた瞬発力、持久力、そして向上心、探求心などが生きましたね。投手はすごく孤独なもの。マウンドで培った緊張への準備の仕方が、競輪でも応用できている気がします。最高峰であるG1レースにも出場できるようになってきたし、競輪選手になって本当に良かった。勝負の緊張感を味わえ、頑張りが結果として返ってくる職業です。

甲子園やインターハイが中止になりました。当事者は無念としか言いようがないでしょう。そうでなくても、目標を失うなど不完全燃焼のアスリートは多いと思います。もし、そんな思いを抱え、「スポーツで生活したい」と思っている人がいるのなら…。競輪選手という素晴らしい道もあるということを、ぜひ覚えていてほしいです。

◆黒沢征治(くろさわ・せいじ)1992年(平4)3月12日、茨城県鉾田市生まれ。常磐大卒。学生、社会人野球の投手として活躍し、Hondaでは15年都市対抗野球大会ベスト16、同社会人野球日本選手権準優勝。競輪学校(現養成所)113期埼玉県所属選手として、18年7月に大宮でデビュー。通算165戦79勝、優勝11回(昨年まで)。プロ野球は巨人とソフトバンクのファン。173・7センチ、82・9キロ。血液型B。

(2020年7月11日、ニッカンスポーツ・コム掲載)