各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。今回は巨人戸郷翔征投手(20)に聞いた。宮崎・都城で生まれ育ち、18年ドラフト6位でプロ入り。下位指名にもかかわらず、1年目でプロ初勝利を挙げた。昨季は桑田真澄氏以来33年ぶりの高卒2年目での開幕ローテーション入り。さらなる飛躍が期待される右腕の少年時代に迫った。

背番号が13番になって初めての勝利を喜ぶ巨人戸郷(2020年6月23日)
背番号が13番になって初めての勝利を喜ぶ巨人戸郷(2020年6月23日)

自然、趣味、習い事、全てが巨人戸郷を育てた。2000年4月4日に都城に誕生して以来、気付けば近所の山や川で遊んでいた。「ずっと走り回ってましたね。ちょっと田舎ではあるので走って山を登ったり、釣りが好きなので、1人で釣りをしたり、友達と釣りに行ってそのままの勢いで泳いだりとかもしてましたかね」。何げない1つ1つの行動が今につながっている。

自然だけではなく、幼い頃から身近にあったのが野球だ。野球をしていた父・健治さんと兄・悠大さんの影響でボールを手にする毎日。当然のように、小学1年生の時に三股ブルースカイで野球を始めた。

小学生時代は両親の協力のもと、壁当てと走り込みに明け暮れた。家の裏にある駐車場が練習場だ。趣味の魚釣りで使っていたネットを父・健治さんが投球ネットに改良。毎日、投げ込んだ。走り込みでは両親が後ろから伴走し「自転車で後ろから来たり、車で追いかけられたりだとか、そういうのをやりながらでしたね」。当時の特訓を笑って振り返った。

小学生の間に基本を身につけ、妻ケ丘中2年時に本格的に投手に転向した。投手としての練習ではコントロールに重点を置き「1球1球意識しましたね」と丁寧に投げ込んだ。中学1年までのポジションは主に捕手で、その経験を生かし「配球を考えながらやってましたね。自分の投げたい球をよく投げられてました」と捕手のサインにもよく首を振ったと言う。

ダイナミックで変則的なアーム式のフォームにたどり着いた戸郷
ダイナミックで変則的なアーム式のフォームにたどり着いた戸郷

投手に転向した当初は、できるだけ多くの投手の映像を見るようにした。特にダルビッシュ(現カブス)に憧れを抱いたが、まねをすることはなかった。「あんましフォームをまねするようなことはしなかったから、今のフォームがあるのかなと」。投げやすい投げ方を意識した結果、ダイナミックで変則的なアーム式のフォームにたどり着いた。

その独特なフォームはけがを心配されることもあるが、心配無用なバックボーンがある。幼稚園の頃にやっていた水泳や、母ヒトミさんについて行き、たまに試合に出させてもらったバレーボールが今に生きている。「やっぱり肩甲骨や肩(の可動域)。つながっているんじゃないかと思います」と幼少期に強靱(きょうじん)な肉体の土台を作り上げていた。

中学卒業後は県外の強豪校からも誘いを受けたが「地元で甲子園に出たい」と聖心ウルスラ学園に進学した。ここからの3年間で、少しずつプロ野球選手という夢が大きくなった。小さい頃から持ち続けたが、なかなか口にはできなかった夢。「やっぱり中学生とかは、恥ずかしくて言えなかった」。周りにはパイロットや漁師と答えていた。

17年8月、甲子園2回戦で聖光学院に敗れ、泣きながら砂を集める聖心ウルスラ学園・戸郷
17年8月、甲子園2回戦で聖光学院に敗れ、泣きながら砂を集める聖心ウルスラ学園・戸郷

その気持ちが変わり、プロを本格的に意識できたのは17年夏の甲子園だった。ノーシードから県大会を勝ち上がり、2年生エースとして出場。結果は2回戦で敗れたが「もう1回、甲子園に来たいなと思ったのがきっかけですかね」。プロ野球選手という夢が近づいた瞬間だった。

そんな学生時代を経てプロ野球選手になった現在、子どもたちに助言できることは何か。「野球のことを考えるのが一番かと思います。人が遊んでても野球をしたいと思えば野球をやってほしいですし、そういう友達を増やして行ったら自分も成長すると思う」。自身は「一番野球が好き」という気持ちの中で趣味や習い事を楽しみ、野球につなげた。全国の少年少女にも、もっともっと野球に親しむようにとアドバイスを送った。【久永壮真】

◆戸郷翔征(とごう・しょうせい)2000年(平12)4月4日、宮崎県都城市生まれ。聖心ウルスラ学園2年夏に甲子園出場。早稲田佐賀戦で11三振を奪い完投勝ち。18年は宮崎県選抜で高校日本代表と対戦し5回1/3で9奪三振。同年ドラフト6位で巨人入団。19年9月21日DeNA戦でプロ初登板。同27日DeNA戦で初勝利。今季は背番号を68から13に変更。186センチ、75キロ。右投げ右打ち。

(2020年6月27日、ニッカンスポーツ・コム掲載)