各界のプロフェッショナルの子ども時代や競技との出会いなどに迫る「プロに聞く」。ロッテ小島(おじま)和哉投手(23)は小学生のころ、野球よりも水泳に熱中していた時期があった。浦和学院(埼玉)では甲子園優勝投手にもなったエリート選手の意外な告白。新型コロナウイルスの影響でシーズン開幕が遅れる中、先発陣の一角として期待される2年目左腕のルーツを探った。

小島の武器であるクロスファイアの源はバタフライにあった
小島の武器であるクロスファイアの源はバタフライにあった

子どもたちが外で思い切り遊びづらい日々が続いている。もし、自分が小学生だったら何をしているだろう。小島は「もう、寝るしかないかもしれませんね」と苦笑いする。とにかく動き回った昔があるから、それができない今に対してうまい言葉が出ない。

小学校高学年の頃は、友達と遊ぶ時間さえなかなか作れなかった。埼玉・鴻巣市の「りんどう少年野球」に小2で入団したのと同時期に、両親の意向で水泳教室にも通い始めた。兄雅浩さん(26)も同じように両立していた。「野球の練習も頑張りましたが、水泳の方が練習が多いときもあった。どうしても友達と遊びたくて、水泳をサボったこともあります」と言うほどハードだった。

水に慣れることから始まり、クロール、背泳ぎ…と級が上がるたび、水泳帽の色が変わっていく。練習は午後6時半から、長い日は夜9時近くまで。「野球がある日は野球の後に水泳。でも、なんか楽しかったんです」。背泳ぎの次の級が平泳ぎで「親からは平泳ぎでやめていいよ、って言われていました」。

そんな時に選手コースに誘われた。多いときで週6回の練習。バタフライが得意になった。素質は水泳でも抜けていた。小学5年生の夏のこと。「自分、誕生日が7月7日の七夕なんです。その1週間後に大会があったんですけれど、そこで泳いだらジュニア・オリンピックのタイムを切れていたんです。もう少し大会が早くあれば(ジュニア・オリンピックに)出られたなと」。

2013年のセンバツで優勝を決め、笑顔を見せる小島(左)
2013年のセンバツで優勝を決め、笑顔を見せる小島(左)

どちらか1つを選ぶ段階になって、野球にした。当時、投手として埼玉県大会でベスト8に進むほどの実力をすでに備えていた。でも、小島は毎日のように泳いだ日々を今でも大事に思っている。「自分はバタフライの選手だったので、心肺機能もとても強くなったと思うんです。肩甲骨周りとかは自然に柔らかくなると思うし、可動域(の大きさ)も自然にできたんじゃないかなと」。

しなやかに腕を振り、右打者ひざ元へクロスファイアを強く投げ込む。その源は、バタフライにあった。「水泳の経験があったから今の自分がある。そう考えると、すごく大事な時期だったんじゃないかなと思います」。そう言いながら「すごく」に力を込める。

時間が許せば、英語も勉強したかった。ピアノも弾いてみたかった。「英語を話せたり、ピアノを弾けたりする人を見ると、かっこいいなって思うんです」。少年時代、やりたいと思ったことは「断られたことは1度もないです」と両親への感謝を忘れない。

小島の活躍の陰には小さいころから支えてくれた家族がある
小島の活躍の陰には小さいころから支えてくれた家族がある

何も言わずに見守ってくれた父浩行さん(59)と、いつも元気に応援してくれる母美和子さん(59)。水泳も野球もそうだった。「大変だったら、いつやめてもいいからね」とずっと言われていた。「自分は、そういう感じで言われると、もうちょっと頑張ろうかなって捉える性格なんです」。束縛のないぬくもりに、大きく育てられた。

「一致団結、っていうのは言い方が変かもしれませんが」と前置きしてから、感謝の思いを続けた。「1個のものを極めようとしたら1人じゃ絶対にできないので、それを支えてくれる家族の一致団結というか、家族みんなに支えられたり、応援してもらえたから、自分はプロ野球選手になれたと思っています」。今度は「絶対に」のフレーズを強調した。

プロ1年目の昨季は、シーズン途中から先発マウンドを任され3勝。今季は貴重な先発左腕として、恩返しの思いを存分に表現していく。【金子真仁】

◆小島和哉(おじま・かずや)1996年(平8)7月7日生まれ、埼玉県出身。浦和学院で甲子園に3度出場。13年センバツではチームを初優勝に導いた。早大では2年秋に最優秀防御率に輝くなど、リーグ戦通算22勝。18年ドラフト3位でロッテ入団。19年8月14日日本ハム戦でプロ初勝利。今季推定年俸1700万円。177センチ、85キロ。左投げ左打ち。

(2020年4月4日、ニッカンスポーツ・コム掲載)