東日本大震災から、11日で丸9年を迎える。ロッテのドラフト1位、佐々木朗希投手(18=大船渡)の故郷、岩手・陸前高田市も大津波で甚大な被害を受けた。

ロッテ佐々木朗が生まれ育った岩手・陸前高田市(撮影・金子真仁)
ロッテ佐々木朗が生まれ育った岩手・陸前高田市(撮影・金子真仁)

当時9歳だった朗希少年は、父功太さん(享年37)と祖父母を亡くした。あれから3289日。身も心も大きくなった18歳は、プロ野球選手としての道を歩み出した。石垣島春季キャンプ中のインタビューでは初めて、父について語っていた。

悲しい。悔しい。何で-。「3・11」には、人それぞれに感情がある。9年の歳月を経た今、佐々木朗希はどんな思いを抱いているのだろうか。「そうですね…」としばらく視線を虚空にさまよわせてから、とても落ち着いた声で話した。

練習を終え引きあげるロッテ佐々木朗(撮影・横山健太)
練習を終え引きあげるロッテ佐々木朗(撮影・横山健太)

朗希 悲しいことではあったんですけれど、すごく今に生きているなと。当たり前が当たり前じゃないとか、今あるものがいつまでもあるわけじゃないとか、そういうのを思い知らされました。 そう思えるまで、どれほどの時間がかかったことだろう。大津波は、朗希少年から多くを奪った。父、祖父母、仲良く過ごした家や街。大人であっても、簡単に気持ちを切り替えられる出来事ではない。それでも「今あるものがいつまでもあるわけじゃない」と後悔しないよう、一生懸命生きてきた。

学生時代は、毎朝のように遺影に向き合ってきた。大人の社会の仲間入りをしたからこそ、感じる偉大さに深みが出る。亡き父について、初めて口を開いた。今度は「なんか、僕が言うのもあれですけど」と気恥ずかしそうに前置きしてから、少し胸を張った。

朗希 誰とでもすごく仲良くしていて、みんなに愛されていたのかなぁ、と思います。

佐々木功太さん。もともと、陸前高田では知られた人だった。元気な3児の優しい父として。人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者として。夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在として。163キロ右腕のことを「あの功太の、3人息子の真ん中の子」と認知する人も多い。

練習を終え引きあげるロッテ佐々木朗(撮影・横山健太)
練習を終え引きあげるロッテ佐々木朗(撮影・横山健太)

若きリーダー、功太さんに多くの人がほれた。壊滅的被害からの復興に尽力してきた戸羽太・陸前高田市長(55)も、付き合いが長かった1人だ。「有言実行の人。一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした」と、未来を語り合った日々を懐かしむ。「気さくで、行動力があって。先輩も後輩も、みんなが付いていって」と褒める言葉が尽きない。

そんな熱い男のDNAを、朗希はしっかりと受け継いでいる。これから大人としてやるべきことは、街を内側から照らした父と同じだ。世界にも名を響かせたその速球で、外側から故郷を1つに束ねる。「地元に恩返しできるように精いっぱいプレーしていきたい」と誓い、上京した。9回目の3・11。夢だったプロ野球選手として、思いを込めて北の空へ目を閉じる。

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