2020年東京五輪・パラリンピックの主会場となる新国立競技場(新宿区)周辺の風景を語る上で、ラーメン店「ホープ軒」は欠かせない。前回の東京五輪が行われた4年前の1960年(昭35)、屋台として創業。「背脂こってり」の発祥店として労働者の腹を満たし、売り上げ杯数は東京一と言われた。75年、国立競技場前に店を構え、牛久保英昭社長(79)は現役で調理場に立つ。期せずして五輪とともに成長してきたラーメン店の物語-。

60年からホープ軒を守り続けている牛久保英昭社長(撮影・三須一紀)
60年からホープ軒を守り続けている牛久保英昭社長(撮影・三須一紀)

豚骨の香り、背脂のこってり、箸にズシリと来る太麺、黄色い看板…。国立競技場をはじめとした神宮外苑の景色が変わっても、変わらない味がそこにはある。

千駄ケ谷に店舗を構えたのは64年東京五輪の後だが、屋台時代、牛久保社長は初めての五輪へ向かう岩戸景気、五輪景気さなかの東京の風景を、ラーメン屋台を通じて目の当たりにした。

背脂こってりスープ、太麺が特徴のホープ軒のラーメン。ネギはトッピング
背脂こってりスープ、太麺が特徴のホープ軒のラーメン。ネギはトッピング

60年、吉祥寺の「ホープ軒本舗」から屋台を借り、高田馬場で早大生ら学生を相手に営業した。ラーメン1杯40円。やはり安さを求める学生相手ではもうからない。次は銀座で試したが“縄張り問題”に直面し、新橋へ流れた。最後に行きついたのは内幸町の元NHK前だった。

「酔っぱらい相手より、働いている人」にターゲットを絞ると、商売は軌道に乗った。内幸町では1杯50円からスタート。NHKや中日新聞などのマスコミ各社やタクシー運転手が主な顧客だった。「マスコミ会社は記者、編集、印刷、発送などと24時間動いているから、お客さんがずっと来てくれた」。昼食だけ、夜だけの屋台が多い中、牛久保社長は昼夜長い時間、店を開けた。

「東京一の売り上げだった」と言い切る自信があった。一般的な屋台は1日約50杯程度の売り上げの中、ホープ軒は多い日で約500杯を記録した。企業努力だった。他者は石油こんろを使っていたところ、牛久保社長は五輪を見据えてプロパンガスを導入した。屋台とは別に、トラックを用意し、麺や調理器具などを別便で運んだ。火力と輸送力を改善し、生産能力は他者を圧倒した。

1杯の価格はタクシーの初乗りや首都高の料金に合わせた。「戦前、銭湯とそば屋の価格は一緒だった」との風習をヒントにした。1杯50円が年を追うごとに少しずつ上昇。この頃は民間より公共料金が先に上がっていた。64年には1杯約70円になっていた。

78歳の今も現役で厨房に立つ牛久保英昭社長
78歳の今も現役で厨房に立つ牛久保英昭社長

62年頃、今や日本中に広まった「背脂こってりスープ」が完成した。当時のラーメンスープは皆、透き通っていたが「中華料理はいろんな料理にスープを使うので、透き通っていなければいけなかった。でも、うちはラーメンにしか使わない。であれば、濁っていても良いのではないか」とひらめいた。

新たな味を求め、バターを入れてみたり、さまざまな研究を重ねた。一時期、鶏皮から取る脂も試した。結局、精肉店はラードにしてしまう安い背脂に着目し、スープに入れてみたら、おいしかった。汗水垂らして働く労働者にも、その濃い味が好まれた。麺の量も一般店舗と比べ50グラムほど多い約180グラムで提供した。

新幹線に高速道路。建築関係者も増え、銀座のクラブの女性たちも客を携えて、ホープ軒を訪れた。五輪前はみんな、好景気に沸き、気持ちがたかぶり、客足は伸びる一途だった。しかし、五輪本番では「客はいないよ。みんなテレビを見るために家に帰っちゃう。銀座のクラブもタクシーもみんな暇になっちゃった」。

開業から15年間、「屋台なんてずっとやってても仕方ない」と思い続けていた。75年、当時から「店を出しても絶対にはやらない」と言われた外苑西通りの一区間「キラー通り」と呼ばれる場所に固定店を構えた。「行列が出来るラーメン店は近隣住民から文句が出るから」と、あえて客が閑散としている場所を選んだ。開店前から自信がみなぎっていた。

内幸町時代、300~400人ほどいた顧客のうち、半分ほどが戻って来れば良いという計算だった。案の定、3カ月から半年の間に戻ってきた。その大半がタクシー運転手だった。「キラー通り」攻略の鍵はリピーター。タクシー運転手が車を止め、パパッとラーメンをかき込めるよう、屋台時代と同様、1階席には立食テーブルを設置し、今なお顧客の心をガッチリつかんでいる。

タクシー運転手が車を止め、すぐに食べられるよう、立食カウンターを設ける
タクシー運転手が車を止め、すぐに食べられるよう、立食カウンターを設ける

国立競技場に並ぶスポーツ観戦客を狙って、現在の場所に出店したわけではない。実際、年に数回しかないビッグイベント以外は、閑古鳥だった国立、そんな中、大学ラグビー早明戦ではテントを張り、数日間並んでいた学生らは、12月の寒空に耐えかね、ホープ軒を訪れた。93年のJリーグ開幕直後はチケットを買うために並んだ客が、流れてきた。しかし、インターネットでチケットが買える時代になり、その恩恵もなくなった。

新国立の建設が始まり、作業員の来店も期待したがいまひとつ。今も昔も、一番活気があるのがプロ野球ヤクルトのナイターが終わった直後。一気に100人ほどの観戦客が流れ、店は大にぎわいになる。

2020年東京五輪・パラリンピックには、やはり期待している。これを機に「国立の稼働率を上げてもらいたい」と話す。旧国立にはなかった客席上部の屋根を活用し、「音楽イベントをどんどんやってほしい。世界大会のパブリックビューイングもいい。せめて1週間に1度はビッグイベントをやるぐらいの気持ちがほしい」と語った。東京五輪までに英語メニューや翻訳機器を導入し、日本のラーメン文化に触れてもらいたい考えもある。

ホープ軒のシンボルマークである「寝そべる豚」は、週刊新潮の連載「プーサン」や朝日新聞の1コマ漫画「社会戯評」などの風刺画を描いた故・横山泰三さんが80年ごろに手がけた。

1杯40円で始めたラーメンは、75年に千駄ケ谷に来た時は120~130円、そして今は750円になった。「100歳までラーメンを作るのが夢」といまだ現役で調理場に立ち、次世代に残したい思いがある。

「昔、ラーメンはごちそうだった。だが今は飲食業界でも最低ランク。この地位を格上げしたい」。決して値段を上げたいわけではない。今や、ちまたにあふれるラーメン店。その昔、高くはないが、ありがたくすすった1杯の価値をもう1度取り戻したいと、新国立のふもとで、スープと麺と格闘している。【三須一紀】

ホープ軒の目の前にある新国立競技場と牛久保英昭社長
ホープ軒の目の前にある新国立競技場と牛久保英昭社長

◆牛久保英昭(うしくぼ・ひであき)1939年(昭14)2月18日、東京・浅草生まれ。45年3月10日の東京大空襲に見舞われた後、母の再婚を機に、岐阜県に引っ越した。岐阜の中学卒業後、菓子店、パン店で職人見習をしたが、将来的な独立志向から東京でラーメン屋台を選んだ。

(2018年10月31日付日刊スポーツ紙面掲載)