「おかえり~!」

 選手たちが野球部寮「和敬寮」に帰ると、食堂から元気な声が響き渡る。「手を洗ってきて! ホラ、リンゴの皮むきしてね!」

 声の主は、山口県宇部鴻城高校野球部の尾崎公彦監督(46)夫人で、寮のおかみさんでもある奈津子さん。作り始めて約30分。選手たちの手を借りながらも、手際よく進める料理は圧巻。あっという間に13人分の夕食が出来上がった。

夕食の準備をしながら、選手たちはその日の練習や学校の出来事をおかみさんに報告
夕食の準備をしながら、選手たちはその日の練習や学校の出来事をおかみさんに報告

 2004年、尾崎監督が監督に就任するとともに、おかみさんも同校の日本史の非常勤講師を務めながら、和敬寮で選手たちと一緒に寝起きする生活が始まった。寮母として選手10人(3月現在)の朝食と夕食を作っている。

 「こちらに来たときは、秋の大会ベスト4で惜しくも中国大会に出場できませんでした。その時、後輩にレギュラーを獲られた2年生が、『おかみさん、体をもっと強くしたい。今日からもっと食べさせてください!』と言ってきたんです。そこから、食育にスイッチが入りました」と、振り返る。「炭水化物を食べないと太らない。でも、たくさんの量を食べさせるには、どのおかずが食べやすいか。そういうところから始まって独学で勉強をするようになりました」。

おかみさんの食事ノートから。講演や本、見聞きしたことで、いいと思うことは全部ノートや日記に書き留めている
おかみさんの食事ノートから。講演や本、見聞きしたことで、いいと思うことは全部ノートや日記に書き留めている

 栄養士の講演があると聞けば足を運び、ありとあらゆる栄養学の本を読み、日頃、見聞きするものの中でいいと思うことは、すべてノートや日記に書き留めた。「最初は“量”を食べさせていたんですが、2011年くらいから“バランス”に変えました。肉は筋肉、骨を作りますからね。とにかく、いいものを食べさせないと」。

 勉強を重ね、今では自身も講演会を開くほどになった。先日は、小中高生、保護者らを対象に「朝ごはんの大切さ」という講演会を開いたばかりだ。「朝起きたら光を浴びて、朝食をしっかり摂って脳に刺激を与える。パンではなくご飯や堅いものをしっかり噛む。すると、脳が活性化するんですよ」。

この日のメニューは寮の名物「和敬寮丼」。味噌とニンニクで炒めた豚肉とキャベツをのせたスタミナ丼だ。それに具だくさんの豚汁(豚肉、ニンジン、大根、油揚げ、シイタケ、白菜、タマネギ、豆腐)、ヒジキ、サーモンのバター焼き、納豆、ブロッコリー、トマト、リンゴ、イチゴとキウイのヨーグルトがけ(納豆、卵は食べ放題)
この日のメニューは寮の名物「和敬寮丼」。味噌とニンニクで炒めた豚肉とキャベツをのせたスタミナ丼だ。それに具だくさんの豚汁(豚肉、ニンジン、大根、油揚げ、シイタケ、白菜、タマネギ、豆腐)、ヒジキ、サーモンのバター焼き、納豆、ブロッコリー、トマト、リンゴ、イチゴとキウイのヨーグルトがけ(納豆、卵は食べ放題)

 主に「疲労回復」を考え、バランスよく、野菜をたくさんとらせるようにしている。風邪の予防には発酵食品、イチゴもストレス解消にはいいという。おかみさんが、食材に対する知識があるからこそ、日々の食事メニューは充実している。

 また、選手たちの健康状態には、常に目を見張る。取材したこの日の朝、鼻血を出した選手が2人いたと聞くと、夕食には急きょ、鉄分の多いヒジキが出された。「メニューは、事前には決めていません。学校が終わって買い物に行ったとき、今日はこれを食べさせようかなぁとか、これを食べたいだろうなぁとか、メニューが頭に浮かんでくるんですよ」と楽しそうに話す。

食欲旺盛の選手たち。寮に入ると5キロ以上体重が増えるという
食欲旺盛の選手たち。寮に入ると5キロ以上体重が増えるという

 しかし、元々は料理は好きではなかった。

 「今もですよ(笑)。趣味はピアノだし、好きなことは授業。でも、野球を見るのは好きで、野球をしている子どもが好き。そこで私ができることは、料理ですからね」。

 朝食の準備に授業、そして夕食と、フル回転のおかみさん。苦労はないのだろうか?

 「苦に思ったことはないです。だって、お母さんが子どもに食事を作るのは当たり前のことでしょう。みんなカワイイじゃないですか! 食事で苦労なんて言っていたら13年もやっていられないです」と笑い飛ばした。

夕食は監督(左)、おかみさんも一緒。練習での厳しさとは一転、明るい会話で笑顔が絶えない。食事時間は30分。食べ終わらなかった選手は残ったものを監督の部屋に持って行き、夜間練習が終わった後、そこで食べる
夕食は監督(左)、おかみさんも一緒。練習での厳しさとは一転、明るい会話で笑顔が絶えない。食事時間は30分。食べ終わらなかった選手は残ったものを監督の部屋に持って行き、夜間練習が終わった後、そこで食べる

 夕方には、練習を早く上がった食事当番の選手たちに買い物を、簡単な調理を選手たちに手伝ってもらう。

 「今日はどうだった?」「調子はどうなん?」「体調は?」

 そんなときに交わす選手との会話から性格や状況を知り、本音を引き出す。また時には、寮生全員に餃子や春巻き、ハンバーグを作ってもらいながら「食育」をすることも。

時には全員で餃子作り(左)。形はまちまちだが、美味しさは一緒
時には全員で餃子作り(左)。形はまちまちだが、美味しさは一緒

 「形はまちまち。でも、生きる勉強です。男の子は結婚しても、料理ができないと通用しませんからね(笑)」。

 選手たちにとって、おかみさんはどういう存在なのだろうか。

食堂には選手たちの目標体重が掲示されている。週に1回、体重測定し、目標に向かって食事する
食堂には選手たちの目標体重が掲示されている。週に1回、体重測定し、目標に向かって食事する

 「自分たちにとっては“お母さん”という存在。ちょっとした表情も見逃さず、時に明るく、時に厳しくアドバイスをしてくれるので、頑張ろうという気持ちになる。めちゃくちゃ身近な存在です」と今春、卒業した丸山颯太君が話すように、巣立つ選手は皆、感謝の言葉を口にする。

 しかし、当のおかみさんは「もちろん、うれしいですけど、大人になって、子どもが生まれたときに気付いてくれたらうれしいなぁって思います。今、感謝している暇があったら野球をやれっ、て思いますね(笑)」。

おかみさんを囲んで。おかみさんの日本史の授業は生徒たちに「面白い」と大好評
おかみさんを囲んで。おかみさんの日本史の授業は生徒たちに「面白い」と大好評

 後悔のない、完全燃焼の高校野球生活を送ってもらいたい-。宇部鴻城の和敬寮の食事には、そんなおかみさんの温かい思いが詰まっている。

 「毎日料理を作ってくれるおかみさんに、感謝の気持ちを示すためにも、宇部鴻城らしい、はつらつとした野球をしたいと思います」とエースの早稲田玲生投手(3年)は力を込める。初戦は25日、大阪桐蔭(大阪)と対戦。選手たちがどんなプレーを見せてくれるのか、楽しみだ。【保坂淑子】

保坂淑子(ほさか・よしこ)

 フリーライター、エディター。日刊スポーツ出版社刊「プロ野球ai」デスク、「輝け甲子園の星」の記者を務める。「輝け甲子園の星」では“ヨシネー”の愛称で連載を持つ。「ヨシネーのひとりごと」(ニッカンスポーツコム)も連載中。

※2017年第89回選抜高校野球出場