世界のトップアスリートといえども常にプレッシャーに晒され、押しつぶされそうになることは珍しいことではない。特に新型コロナウイルスの感染拡大が始まって以降、アスリートたちも多分にもれずストレスや感情面の問題に直面しており、東京オリンピック(五輪)でそれが顕著化した。連覇が期待された絶対王者の体操女子米国代表シモーネ・バイルズ(24)が心の健康を理由に団体戦を棄権したことで、「メンタルヘルス」の問題が世界的に脚光を浴びることとなった。

メンタルヘルスと聞くと、心の病気や不調を連想しがちだが、メンタルは英語では「精神的」、ヘルスは「健康」を意味する。直訳すると「心の健康」となり、精神面における健康のことを示している。真の健康とは、身体的、精神的、社会的な健全が保たれている状態を指すことが、ようやく広く知られるようになってきた。

体操女子シモーネ・バイルズの棄権で波紋

強靭な精神力を持つトップアスリートたちは、時に心に問題を抱えていないと思われがちで、アスリート自身もこれまで自らが抱えるメンタルヘルスの問題を公にすることはあまりなかった。しかし、女子テニス世界ランキング2位で東京五輪ではシングルス3回戦で敗退した大坂なおみ(23=日清食品)が、5月の全仏オープンでの記者会見を精神的負担を理由に拒否したことを機に、アスリートのメンタルヘルスについて論議が始まった。

そうした中で迎えた東京五輪で、バイルズは「心の健康が第一で、それがなければスポーツを楽しむことができないし、思うように成功はできない。大会を欠場して自分自身に集中しても良い」と堂々と語った。その姿は多くアスリートに感銘を与え、その後も陸上男子200mで銅メダリに輝いたノア・ライルズ(米国)が試合後に涙ながらに自身のうつや不安との戦いについて語るなど、メンタルヘルスをオープンにするアスリートが続々現れた。

「競技はフルタイムの仕事ではなく、ライフスタイルそのもの」と語る選手もいるほど多くのアスリートが、五輪で勝つことに人生のすべてを捧げている。国を背負い、勝つことが期待されるプレッシャーは並大抵のものではないが、なぜこれまでアスリートたちはこの問題について声を上げてこなかったのだろう。

「恥」「汚点」から変化、アスリートがオープンに

バイルズのカウンセラーを務めるセラピストは、「メンタルヘルスについて明かすのは恥で汚点だと感じるアスリートが多い」と指摘。「それが、アスリートたちが支援を求めるのを妨げている」と語る。

また、かつて深刻な不安障害やうつ病を患って自殺まで考えたことを公表している通算28個のメダルを獲得した元競泳王者マイケル・フィリップ氏は、「たくさんの人がフィジカル面のケアについては一生懸命なのに、メンタル面のケアについては誰も気にかけないことにとても傷ついた」と語り、スポーツ界全体においてアスリートに対するメンタル面への配慮が欠けていたことを指摘している。

1年延期とコロナ禍で想像以上に不安や孤独

コロナ禍で迎えた東京五輪では、勝つことや注目されることへのプレッシャーに加え、先の見通せない情勢への不安や、厳しい感染対策、そして孤独との戦いも加わった。特に1年間延期になったことや感染対策のために思うように練習ができず、身体能力のピークを維持するための精神的負担が大きかったとの声が多く聞かれた。

元競泳米国代表の銀メダリストで、現在はジョンズ・ホプキンス大学ブルームバーグ公衆衛生大学院の教授を務めるタラ・カーク・セル氏は、「他人との接触を避ける感染予防対策は、一部のアスリートにとっては集中するのに役立ったかもしれないが、逆に孤立してより多くのプレッシャーを感じた選手もいたはずだ」と指摘。自身のルーティーンや大会前のプロセスが崩れて調子が乱れたり、無観客に違和感を覚えたり、感染対策に気が散って集中できなかった選手もいたのではと推察する。また、感染対策によってチームの支援が受けにくい状況だったことや精神的な支えとなる家族や恋人の来日が禁じられたこともメンタル面に与えた影響は大きかったと指摘する専門家もいる。

次のページ問われるSNSの功罪、誹謗中傷に心痛める選手も