11月の全日本大学駅伝で、駒沢大学は大会新記録で6年ぶり13度目の優勝を飾った。その陸上部の食事を長年作り続け、陰で支えているのが、大八木弘明監督(62)の妻で駒大「道環寮」の寮母を務める大八木京子さん。東京五輪男子マラソン代表でOBの中村匠吾(28)や、全日本大学駅伝で逆転劇を演じたエース田沢廉(2年)らが食べる料理には、どんな工夫や気持ちが込められているのか。13年ぶりの優勝を狙う正月の箱根駅伝を前に、強豪校の食事事情に迫るべく、京子さんに話を伺った。

道環寮の1年生と一緒に写る大八木京子さん(右)

栄養は食べてもらって初めて意味がある

07年春、寮母としてそれまで12年間も独学で選手に食事を作り続けてきた京子さんは、栄養の専門学校に通い始めた。「今、中村匠吾くんがここを拠点に練習しているように、(マラソン元日本最高記録保持者の)藤田敦史くん(現駒大コーチ)も当時、ここで練習して食事をしていました。日本の代表ランナーが食べる物だから、さすがに私も勉強した方がいいと思ったんです」。

学生たちに朝夕と食事を作り、その合間に通学して勉強した。多忙を極めたが、時間をやりくりした2年間の学生生活の末、栄養士の資格を取得した。では、それによって何が変わったのだろう。

「そんなに変わりませんでした(笑い)。私が作るものは家で母親が作るような、家庭料理のような食事です。『栄養がこうだから』『カロリーがこうだから』と、きちっとした物を出しているわけではない。知識だけで栄養のかたまりをバーンと出されても、おいしくなかったら意味がないし、うーんと思っちゃいますよね。いろいろなものが整って、おいしく楽しくが理想。『こういう栄養素が入っていたんだよ』というのは、食べた後に付いてくればいいかなと思っています」

栄養の知識も理論も、食べてもらって初めて意味がある―。そう分かったことが、資格を取って得られた一番の収穫かもしれない。京子さんが作る食事に、いつも変わらず込められている思いだ。

1歳の長女を背負って30人分の食事作り

道環寮のキッチン

学生たちに食事を作り続けて、26年になる。夫の大八木弘明監督が、練習メニューの作成や選手の健康管理を託されて母校のコーチに就任したのは95年春のこと。それと同時に「学生たちに食事をつくってほしい」と頼まれた。長女がまだ1歳のときだった。

当時の駒大の寮は、現在の道環寮の2つ前にあたり、サッカー部と共同の「かなりボロボロ」なアパートだった。台所は一般的な家庭と変わらず、食事は個々に自炊。カップラーメンで済ませる学生も日常茶飯事の時代だった。

駒大はそれまで、箱根駅伝は4位が最高成績。直近2年間はシード落ちしていた。そこで「いろいろなものを変えなければいけない」と、最初に手を付けられたのが食事の改革だった。

京子さんは学生時代、駒大陸上部のマネジャーを務めた。その同級生に、年齢こそ違うが、実業団を経て入学してきた大八木監督がいた。貧血に苦しむ現役時代の姿も、間近で見ていた。「だから監督は、食べることの重要性を感じていたんだと思います」。母校のために打診された寮母を断る選択肢はなかった。

インターネットで調べることも満足にできなかった時代。全て手探りだった。狭い台所で慣れない大人数の食事作りに、たった1人で挑む。毎朝夕の2食を、作っては出す、の繰り返し。「子供をソファで寝転がしたり、背負ってあやしながら20~30人分の食事を作る。そんな感じでした」。

エース藤田で感じた教訓。改善より予防

2000年12月3日の福岡国際マラソンで、2時間6分51秒の日本最高記録(当時)で優勝した藤田敦史

寮母になるのと同時に入部してきたのが藤田氏だった。2000年にマラソン日本最高記録2時間6分51秒(当時)を樹立するトップランナーだが、入部当初は不調が続いた。それを貧血のせいだと見抜いたのは“経験者”でもある大八木監督だった。そこで京子さんは、レバーやきくらげなどの鉄分を含む食事を毎日、個別に用意し続けた。

夫婦のおかげで貧血を克服していった藤田氏。その時、京子さんが感じたのは安堵(あんど)ではなく使命感だった。「あの時は急きょ、そういう食事を提供し続けましたが、急にレバーを食べたから貧血が治るかというと違いますよね。普段から食べ続けることが大切。なるべくそういう栄養が入っているものを日頃から少しずつ出して、そういう症状にならないように工夫しよう、というのが教訓になりました」。

5年目に、陸上部だけの新しい寮が完成した。キッチンも充実し、環境が整った。するとその年、箱根駅伝で悲願の初優勝を飾った。翌々年からは4連覇を達成。全日本大学駅伝5連覇も果たした。強豪校としての道が始まった。

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